平賀源内 自筆書状 2通(渡辺桃源・觚斉・平賀権太夫宛と桃源宛)

平賀源内 自筆書状 2通

渡辺桃源・觚斉・平賀権太夫宛と桃源宛 巻物

全長625 × 幅20cm
平賀源内全集(上巻)入田整三編 所載 昭和10年平賀源内顕彰会発行 平賀 敏氏 旧蔵

非常の人(杉田玄白 曰ク)
平賀源内
享保十三年(一七二八)四国 高松藩 志度の蔵番 白石家の三男として、寒川郡志度浦に生まれた。
鳩溪と号す。
のちに戯作に筆を執ると「風来山人」と称した。本草学・博物学に傾倒し、その進取の気性は産業技術家・企業家・エレキテル、火 浣布などの発明家となる。
一方では、洋風画の理論的指導者であり、又談林派の俳諧に親しみ、狂歌や戯作を多 く残している。
軟陶三彩の交趾焼風の「源内焼」の製作・販売も行った。
安永八年(一七七九)誤って門人を殺傷し獄中にて死す。年五十二。

この自筆による書状 二通は
源内の生地 讃岐志度町の後援者である渡辺桃源公・従弟の平賀権太夫・觚斉の三名に宛てたものと、桃源公に宛てたもの。
書状の内容は、
鳥に羽なく、船に帆なく、旅に金なくば 何も出来ない」と書き、旅先の大坂や小豆島での金銭の工面に苦労していること。
焼物(源内焼)の評判が良くなり、九州 天草から、土を取寄せていること。多田銀銅山は、まだまだ銀が有る。吉野山では「人丸の目には、雲ともみよしのの、 花よりだんご、金の丸かせ」と狂歌を読むほど、満山銀銅である。自分は、今や古今の大山師になったこと。又、とにかく大都会にあらざれば事は成就しない などと書かれている。
源内は、宝暦六年 二十九歳 大坂を経て江戸に上り、湯島聖堂に寓居。その後神田白壁町に移居した。
四十四歳、長崎からの帰途、小豆島・大坂に滞在。その時に、桃源公らに現状報告した書状と考えられる

2-39 有村松雲堂

〒541-0043 大阪府大阪市中央区高麗橋2-3-10
TEL 06-6202-1400