船場の粋がただよう 大阪美術倶楽部

参考資料 鴻池家の歴史

浪速の豪商 鴻池家の歴史

鴻池家の始祖

山中新六幸元(1570年生)、戦国時代山陰を支配した尼子氏の家臣で山中鹿之助幸盛の長男幸元、故あって伊丹在鴻池村の大叔父山中信直(荒木村重の家臣)に養われる。 15才で元服し、その後深く考える所があり両刀を捨て、商いで身をたてよと決心己が武士の子孫であることを堅く秘しその名も新右エ門と改めた。

清酒の醸造と鴻池家の酒造業

当時の伊丹地方は酒造業が盛んであった、始祖新六も慶長の初めまでに酒造業を初め慶長4年(1599)には樽酒を江戸に運んで販売する「江戸送り」を開始した。 当時酒は濁り酒であったが、主人に叱られた鴻池山中酒屋の丁稚が、腹いせをしようと濁り酒の桶の中に灰を入れたところ、 翌日には香りのよい清酒となっていたというエピソードがあります。

海運業の開始

鴻池山中酒屋の酒は大変評判が良く、元和5年(1619)には大阪内久宝寺町にも店を構え、醸造、販売を行った。 また江戸へ酒を大量に輸送するために、これまでの馬による陸上輸送にかわって船による海上輸送を行い、寛永2年(1625)には海運業を初め、 さらに諸藩の年貢米を大阪へ廻送したり、参勤交代に伴って国元と江戸間の物資輸送などをつとめた。

両替商へと今橋開店

酒造業と海運業で財を成した鴻池家は、大名の「蔵屋敷」にある年貢米などの「蔵物」を担保にして金を貸し付ける「大名貸し」も開始され、 「大名貸し」を足掛かりに明暦2年(1656))には「両替商」を始めた。 「両替商」は金銭売買、貸付、手形振出、預金などを取扱い、今日の銀行のような役割を果たした。 寛文10年(1670)には両替商仲間の取締りや幕府の御用両替として公金の出納の取扱いを行う「十人両替」の一人にも選ばれた。 延宝2年(1674)天王寺屋五兵衛を筆頭に多数の両替商が営業していた現在地今橋通に内久宝寺町より両替店を移した。 元禄年間に鴻池家と取引のあった大名は尾州、紀州以下32藩にも及びますますの発展を続け、 嘉永7年(1854)には長者番付の最高位で東の大関となり、「日本の富の七分は大阪にあり、大阪の富の八分は今橋にあり」と言われるほどの財を成した。

鴻池新田の開発

両替商と大名貸しとで鴻池屋の資本は相当なものになり、当時町人請負新田が開発され鴻池屋も大和川切換えにともない200町歩余りの 鴻池新田(宝永4年:1707竣工)を開発する。

明治以降と鴻池家

明治4年 廃藩置県が断行され町人より大名への貸付金は帳消しされ、当時76藩と取引のあった鴻池の損失は莫大であった。
明治10年 第13国立銀行設立。
明治30年 個人経営の鴻池銀行を興し第13国立銀行の営業を継承 。
昭和8年 鴻池銀行、山口銀行、三十四銀行が合併して三和銀行を設立。
終戦後の農地改革により鴻池新田他多数の田畑を失う。
明治以後三井、住友等は人材に恵まれ官軍側の新政府について新政府の御用達をする等、事業を拡大していくが、次第に衰運に向った姿は惜しみてもあまりあるが、 しかも幾多の江戸時代の巨商、旧家が維新後相次いで消失したのに比すれば、今もなお着実に家柄を守っておられる所は慶賀すべきである。

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